このところ、ブログに書く記事のソースが、新聞とかネットというのが、心苦しいのですが、今日もネットねたから。もっとも、ジンバブウェの情報が、東京の調布の畑が見える部屋で手に入るというのも、時代だなぁとしみじみ思いますが。あ、記事については、一応、出所があきらかになっているものは、そこまでたどり着いて、原文を読んだ上で書いていますからご安心下さい。
なんで、そんな言い訳めいたことから書き始めたかというと、百聞は一見にしかず、という言葉もある一方で、見たことしか信じられないというのは、想像力が欠如しているという見方もできるわけで・・・。だけど、噂を信じてしまうということもいえるわけです・・・。
正直、今、ジンバブウェの中で起こっていることの恐怖を、私は実感することができません。こんなことを書くと、非情だとか、何をのんきなことを言っているんだ、とかお叱りを受けそうですが。(そして、そのお叱りはあえて受けようと思いますが)、でも、やっぱり見ていないことは発言できないのです。
暴挙がウソだとは言いません。あぁいうことが起こりうるだろうとは、思っています(いました)から。でも、自分の中で、その恐怖を一緒に感じることは、今の自分にはできない。私がつい1ヶ月前に見てきたジンバブウェは、少なくとも、私がすごした村は、暴力沙汰とは無縁のところでした。
だけど、今の状況だと、ジンバブウェの暴力に対して何か叫んだり、非難したりしないと、なんだかいけないみたいな雰囲気になってしまいます。おそらく洞爺湖サミットでも、(イギリスは、待ってましたとばかりに)、ジンバウブェのことを話題にするだろうし、”市民社会”でも、ジンバブウェのムガベ政権批判を展開するんだと思うのです。
そうした動きを否定するつもりも、拒絶するつもりもないのですが、平和な村を見てきた自分が、なんだかいけないことをした、大きな間違いを犯してしまったみたいな気持ちにさせられてしまう。極端に言うと、平和がいけないみたいにまで私は感じてしまう。私が勝手にそう思っているのか、でも、私にそう思わせてしまう(なんかえらそうな物言いですいません)この異様な(日本の)雰囲気ってなんなんだろうって思うのです。これが市民社会の持つ「正義」で、これこそが、世の中を平和にする力なのかもしれないのですが・・・。
6月28日にムビラ・サミットというイベントに出させていただいた時のことを事務局便りのブログに書かせていただいたので、読んで下さった方もいらっしゃるかと思いますが、ムビラサミットで、暴力沙汰の報告があった時に、平和な村の話をするのに躊躇する自分がいました。なんだか、引け目を感じてしまう、という感覚でした。
いやぁ、個人的な感情をあまりブログでは書かないようにしているんですが、つい、これだけは、1週間経っても消えないので、ぐだぐだと書いているんですが、この批判の渦の中で、胸の中にふつふつと浮かんでくるものがあるのですよ。それは、
平和な村もあって、そこでは、人がぼーっとしてるわけじゃなくて、一所懸命、汗水流して働いて、日々の暮らしを送っているということ。それを、ちゃんと胸張って言わなくちゃいけないんじゃないかって、思っているんです。
だって、どうして、こんなことが起こるのか。もちろん、権力による圧力で民兵とか若者とかが動くのですが、でも、彼らの生活が安定していたら、ここまで権力に扇動されるだろうか・・・とも考えてしまうのです。
だから、・・・・うまくいえないんですが・・・・、平和なニュースを流して、暴力の事実を隠すという意味じゃなくて、暴力の連鎖、恐怖の連鎖を断ち切るのは、逆の平和とか、日々の普通の暮らしのイメージをもっと固定化させるということに尽きるんじゃないかと思い始めているのです。
今のBBCをはじめとする報道(いや、BBCには言いたいこと山ほどあるけど、まぁ、一応。)をどうこう言うつもりはないし、それに呼応して動く「政治」や「市民社会」も、そうあるべきなんだろうとは思うのですが・・・・・。
すいません、なんか、これ書き出すと、きっときりがないくらい、長くなってしまうので、これで止めます。「ねっとネタから」と書いたくせに、そこまでたどり着きませんでした。ごめんなさい。
続きは、またちょっと自分が落ち着いてから。
明日は、午前中に、メディアリテラシーの講座@地元に行き、午後、先輩のコンサートに行くので、次の更新は日曜日になります。(お)
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